2016年9月3日土曜日

最近読んだ本


吉田修一「怒り」

私は邦画が好きです。
大学生の頃、レンタルビデオ屋のTSUTAYAでアルバイトをしていました。
そのお店のアルバイトの特権…DVDもCDも、借り放題だったんです。
深夜2時過ぎまでアルバイトしてそこからDVDを2枚とか観て、私はいつ寝て学校へ行っていたのでしょう…(遠い目)
その頃は特にミニシアター系の映画が好きで、観ても言葉で説明するのが難しいような、説明するのがめんどくさいようなもったいないような、感じておしまい!みたいなものばかり観ていたような気がします。

最近は気分転換のために意識的に映画館へ足を運ぶようになりました。
家でゆっくりDVDを観るのはあい変わらず好きですが、劇場だと圧倒されますね。
あまりに大きい音が出そうな映画はびっくりするので選びませんが。

映画本編が始まる前の、公開前映画の予告も結構好きで、次は何を観ようかと考える時の参考にしてます。
そして気になったのが写真にも載せている、吉田修一原作、李相日監督脚本の「怒り」です。
予告編を観て、キャストをみて、映画公開が待ちきれなくて原作を読みました。

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若い夫婦が自宅で惨殺され、現場には「怒」という血文字が残されていた。
犯人は山神一也、二十七歳と判明するが、その行方は杳として知れず捜査は難航していた。
そして事件から一年後の夏---。
房総の港町で働く槙洋平・愛子親子、大手企業に勤めるゲイの藤田優馬、沖縄の離島で母と暮らす小宮山泉の前に、身元不詳の三人の男が現れた。
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(引用元:怒り(上)吉田修一、中公文庫)


ネタバレはありません、以下に感想を書きます。






要は、自分と出会う前にどこで何をしていたかわからない身元不詳の人間を信じることができるのだろうか?という、とてもシンプルな話です。
この話の「信じる」という対象は、とことん「人」です。
家族、恋人、友人、自分自身。

今、自分の目の前にいる人を信じられるかどうか。
その人を全面的に信じられるかどうか。
信じたいと思う自分自身を信じられるかどうか。
相手は自分を信じてくれているかどうか。


身元不詳とまでいかなくても、私たちは日々出会う人の過去のことを知らなくても、その瞬間、瞬間で信頼・信用して社会生活を営んでいるし、営めているし、そうしなければ営めないのだと思います。
なんでしょう…本当に自分の深いところを見せる時こそ、相手を疑いたくなるのだと私は思います。
騙されたくない、傷つきたくないと、保身に入る時に悩み、迷い、逃げ、攻撃をするんだと思います。
けれどそれは至極もっともなことで、そういう人を目の当たりにしたとしても誰も責めることはできないと思うのです。
まぁ、だからといってそれを正当化するのは…ちょっと違う思いますが。(と言って私は逃げるのです、ふふふ)


この物語の登場人物たちは、自分の信じることを信じて、それぞれの道を行きました。
タイトルになっている「怒り」という感情も、それぞれの形で随所に現れていました、押し込めてもいました。
物語を読んだ私自身の感情は、最後はストンとしたところに落ち着き、納得というか、自然だな、と感じて本を閉じました。

先に映画の予告で人間が動くところを見てしまったので、本を読んでいるとその人たち(キャスト)のイメージが浮かんできて、物語に入り込めました。
私の購入した文庫本は映画公開が待っているから、キャストの顔写真入りのカバーだったのですが、あえて外した写真をこの記事に載せました。(私にとっては顔写真入りカバーは良かったです、写真を眺めながら読み進めていました。)
これから原作を読みたい、という人がいらっしゃると思いますので…。

私は映画のキャスト、すごく好きです。
好きな人がたくさん出ています。
映画公開が本当に楽しみです!
余談ですが監督の李相日さんが新潟出身みたいで勝手に親近感を覚えてますー。

以上、ふわっと読書感想文でした。
のんびりした時間が持てました。笑

次の記事でお知らせを書かねばです…。
でも今日は寝ます、おやすみなさい( ˘ω˘ )

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